男は強くあるべきだ、家族を支えなければならない。そんな思いで私はずっと堪えてきました。しかし、0歳児だった息子の葬儀の日、私は生まれて初めて、声を上げて泣きました。父親という立場は、葬儀の場では喪主を務めたり、対外的な対応に追われたりと、自分の悲しみを後回しにしがちです。私もそうでした。役所への手続きを済ませ、親戚に電話をかけ、葬儀社と費用を相談する。事務的な作業をこなしている間は、どこか現実味を欠いていました。しかし、葬儀会場で、彼のために用意されたあの驚くほど小さな棺を目の当たりにした瞬間、私の心の防波堤は崩れ去りました。その棺は、私の腕の中にすっぽりと収まるほど小さく、中に入っているのは、つい昨日まで温かかった私の息子です。彼にしてあげたかったこと、一緒にキャッチボールをしたかった、酒を酌み交わしたかった。そんな未来が全て奪われた絶望感に、私は膝を突きました。妻はもっと辛い。10ヶ月もお腹の中で育て、命がけで産んだ彼女の喪失感は、計り知れません。私は喪主として挨拶をしなければなりませんでしたが、結局、用意した原稿は読めませんでした。「ごめんな、守ってやれなくて。でも、お前のパパになれて幸せだったよ」という一言を絞り出すのが精一杯でした。火葬場で、スイッチを押す瞬間。その重みは、一生忘れることはないでしょう。収骨のとき、彼の小さな骨を箸で拾いながら、私は決意しました。この悲しみを、私は一生背負っていこう。忘れるのではなく、彼の存在を私の生きる力に変えていこう、と。0歳児の葬儀を通じて、私は「父親」というものの本当の意味を知った気がします。それは単に経済的に支えることではなく、家族の悲しみを共に背負い、共に泣き、そして共に一歩を踏み出すことです。あれから数年が経ちますが、今でも彼の月命日には花を供え、あの日の小さな棺の感触を思い出します。葬儀は、私に本当の絶望を教えましたが、同時に、家族の絆と、今生きていることの尊さを教えてくれました。息子が遺してくれたこの感情を大切にしながら、私はこれからも、彼の自慢できるパパであり続けたいと願っています。
父親の視点で綴る赤ちゃんの葬儀