不慮の事故で亡くなった親友の葬儀に参列した時、私はクローゼットから10年前に新調したブラックスーツを取り出しました。その黒は、どこまでも深く、鏡のように静かな色をしていました。駅に向かう道中、街を行き交う人々の中で、この漆黒のスーツを着ている自分だけが、別の時間を生きているような感覚に陥りました。ブラックスーツを纏うということは、日常という喧騒から自らを切り離し、悲しみという聖域に足を踏み入れるための通過儀礼なのだと、その時強く感じました。斎場に到着すると、そこには同じように深い黒に身を包んだ仲間たちが集まっていました。私たちは言葉を交わさずとも、お互いの服装を見るだけで、親友に対する共通の想いを理解し合えました。ブラックスーツは、個人のファッションセンスを主張する場ではありません。むしろ、個を消し、共通の哀悼の意を表明するためのユニフォームです。祭壇の前に立ったとき、私の漆黒の袖口が白い花々に映えました。そのコントラストが、生命の鮮やかさと、死の厳粛さを際立たせているように思えました。もし、私がこの時ビジネススーツを着ていたら、親友に対してこれほどまでに真摯な気持ちになれたでしょうか。形から入る、という言葉がありますが、弔事においてはその形こそが心を守る器になります。ブラックスーツの重厚な生地が、震える自分の心をしっかりと支えてくれているような気がしました。出棺の際、霊柩車が遠ざかっていくのを、私たちは漆黒の列を作って見送りました。その黒い帯は、故人がこの世から旅立つための静かな滑走路のようでした。式を終えて帰宅し、スーツを脱いだとき、ようやく私の心に一区切りがつきました。ブラックスーツを脱ぐという行為は、悲しみの場所から再び日常へと戻るためのスイッチだったのかもしれません。もうこのスーツをしばらく着る機会がないことを願いつつ、丁寧にブラシをかけて仕舞いました。しかし、その漆黒の布地には、親友との思い出と、あの日感じた深い祈りが、目に見えない粒子となって刻み込まれているような気がします。ブラックスーツは、悲しみを通じ、人と人とを繋ぎ、そして死を受け入れるための、無言の対話の道具なのです。