私たちは、誰かの訃報に接した際、弔意を伝えるために弔電を送ることがあります。その時、私たちの心にあるのは、純粋に故人を悼み、残されたご遺族を慰めたいという、温かい気持ちのはずです。しかし、時に、無意識のうちに「弔電を送ったのだから、何らかのお礼があるべきだ」と考えてしまうことはないでしょうか。ここでは、視点を逆転させ、弔電を「送る側」の心構えについて考えてみたいと思います。その最も大切な心構えとは、「お礼は、決して期待しない」ということです。まず、大前提として、ご遺族は、大切な家族を失ったという、人生で最も深く、辛い悲しみの中にいます。その上、葬儀の準備や、様々な手続き、そして多くの弔問客への対応など、精神的にも肉体的にも極限状態に置かれています。そのような状況で、弔電の一通一通に対して、すぐに、そして完璧にお礼の対応を求めること自体が、あまりにも酷な要求であるということを、私たちは深く理解しなければなりません。弔電は、見返りを求めるための投資ではありません。それは、こちらから一方的に差し出す、純粋な「弔意の表明」であり、「あなたの悲しみに、私も心を寄せています」という、無償のメッセージです。そのメッセージが相手に届き、少しでも慰めになったのなら、それで弔電の役割は十分に果たされているのです。もし、後日、ご遺族から丁寧なお礼状が届いたり、電話があったりしたならば、それは、ご遺族が大変な状況の中、私たちの気持ちに応えようと、多大な労力を払ってくださった証です。その際は、「こちらこそ、大変な時に恐縮です」と、むしろ相手を気遣う言葉をかけるのが、本当の思いやりでしょう。逆にお礼がなかったとしても、それを「非常識だ」と責めるのは、あまりにも身勝手な考えです。もしかしたら、お礼をする余裕さえないほど、深く打ちひしがれているのかもしれない。そうした、相手の状況を想像する力こそが、弔いの場では何よりも求められます。弔電を送るという行為は、相手への思いやりを試される、私たち自身の心のあり方を映し出す鏡なのかもしれません。
弔電を送る側の心構え、お礼は期待しない