逝去から始まり、通夜、葬儀・告別式、火葬、そして四十九日、年忌法要へと続く、長く、そして定められた「流れ」。私たちは、なぜ、これほどまでに多くの儀式を、決められた手順に従って執り行うのでしょうか。それは、この一連の流れ、すなわち「儀式(リチュアル)」そのものが、残された人々が、愛する人の「死」という、計り知れないほど大きく、そして混沌とした出来事を受け入れ、乗り越えていくための、先人たちが遺してくれた、深い知恵と慈しみに満ちた仕組みだからです。人が亡くなった直後、私たちの心は、深い悲しみと混乱、そして「何をすれば良いのか分からない」という途方もない不安に襲われます。そんな時、葬儀という定められた「流れ」は、私たちに具体的な行動の指針を与えてくれます。次に何をすべきかが明確であることは、混沌とした心に秩序をもたらし、無力感から私たちを救い出してくれます。また、通夜や葬儀といった儀式は、故人を失ったという共通の体験を持つ人々が、一つの場所に集い、悲しみを共有するための、社会的な装置でもあります。多くの人が同じように涙を流し、故人を偲ぶ姿を見ることで、「悲しいのは自分だけではない」という連帯感が生まれ、孤独が癒やされます。そして、焼香をする、花を手向ける、棺を担ぐ、骨を拾うといった、一つ一つの具体的な行為は、故人のために何かをしてあげられたという、「役割完了」の感覚を与えてくれます。これが、「もっと何かできたのではないか」という、残された者が抱えがちな後悔の念を、少しずつ和らげてくれるのです。さらに、四十九日、一周忌、三回忌と続く、長い時間の流れの中で、故人を定期的に思い出し、供養するという行為は、故人を無理に忘れ去るのではなく、心の中の新しい場所に、大切な思い出として位置づけていくための、穏やかなプロセス(グריフワーク)となります。葬儀・法要の流れとは、単なる形式的な手順ではありません。それは、私たちが深い悲しみの淵から、再び希望を持って生きていくために、故人が、そして社会が、私たちに残してくれた、最後の、そして最も温かい道しるべなのです。